当事務所は新宿の雑居ビルにある。
いつも挨拶を交わしている掃除のおばちゃんから、こんな話を聞いた。
「ほら、あの近くの焼肉屋さんでね。今、期間限定のランチをやってるらしいのよ。ご飯のお代わり無料で、お肉は180グラムで2000円だって。ちょっと、微妙だよねぇ。」
たしかに、新宿界隈でランチをまともに食べようとすると、1000円は軽く超える。
180グラムの肉は多いほうかもしれないし、この令和の米騒動のさなか、ライスお代わり無料とは、思い切った戦略とも言える。
「そうなんですね。若い男性なら魅力に感じるかもしれませんが、僕はそんなに量を食べられないから、コスパ悪いですよ。」
「そうだよね。ましてや女性はそれで行かないよねぇ。」
「ええ。ライスお代わり無料より、アイスクリームなど“選べるスウィーツ一品サービス”の方が、魅力が出てきそうですよね。」
「ほう……さすが、中小企業診断士さんだねぇ。よし、早速言いに行こう。」
私は掃除のおばちゃんに連れられて、その焼肉屋に向かった。
飲食店の経営指標として「FLR比率」がある。
FLRとは、Food(食材費)・Labor(人件費)・Rent(家賃)の頭文字で、売上のうちこれらが占める割合を示す。
当然ながら、この比率は低ければ低いほど、利益率は高くなる。
一般的には、材料費+人件費が60%、家賃が10%、合計70%未満が健全とされている。
さて、店に着いた。
平日の午後1時半。席数は20席ほど。ランチ客と思われる来店者は3人。
さっそく、掃除のおばちゃんが店主らしき白髪交じりの髭を蓄えた中年男性に話しかける。
「ねぇ、この期間限定の2000円ランチ、売れてる?」
「はい。若い男性のお客様には喜んでいただいています。」
「ふ〜ん。今、お米って高いし、大変じゃないの?」
「はい。営業努力でやっております。」
「これさぁ、女の人って注文してる?」
「いえ。ほとんど注文されていません。」
「じゃあさ、“ライスお代わり無料”の代わりに、“選べるスウィーツ一品サービス”にしてみたらどう?
暑いし、アイスクリームとか食べたいよね。ライスより、かえってコスト下がるんじゃない?」
「はい。検討してみたいと思います。」
私の出る幕は、ほとんどない。
掃除のおばちゃん、本当にすごい。
せっかく来たので、中小企業診断士らしく、FLR比率の話を持ち出してみた。
「このランチ価格って、利益取れるんですか?」
私がそう尋ねると、店主は苦笑しながら答えた。
「まあ、宣伝込みです。赤字ではありませんが、FLRで言えば80%超えているくらいですかね。」
想定以上の数値だ。
この業界で80%超とは、利益がほとんど残らない状態。
180グラムの肉とライス食べ放題で2000円の構成では、原価比率が高くなるのも無理はない。
人件費や家賃の圧縮で、ようやく成立しているのだろう。
「うちは、昼は家族で回してますし、家賃も古い建物なので低めです。だからやれてるんですよ。」
店主は、厨房の奥からちらりと奥様を指さした。
人的コストを抑え、広告費を使わず、口コミと街の評判で認知を広げる。
いわば“自走型マーケティング”を貫いているスタイルだ。
「でも、おっしゃる通り、女性客の入りがまったくないんですよね。」
店主は少し悩ましげな表情を見せた。
「女性を呼び込むには、価格より“空間体験”と“ちょっとした嬉しさ”の仕掛けですよ。」
私はそう提案してみた。
「たとえば?」と店主が聞く。
「この価格で勝負するなら、せめてメニュー名です。
“ライスお代わり無料!肉盛りランチ”より、“自分へのご褒美焼肉ランチ”。
アイス付きなら、“選べるスイーツ!プチ贅沢焼肉ランチ”とかどうでしょう。」
「そうよ。名前だけでも、ちょっとウキウキしたくなるじゃない!」
掃除のおばちゃんが力強くうなずく。
店主は、言葉以上に真剣にメモを取っていた。
焼肉店は調理工程がシンプルな分、誰に向けて売るか=客層戦略が収益に直結する。
しかもこの界隈はランチ激戦区として知られ、日々さまざまな店が差別化を競っている。
さらに、美容クリニックやエステティックサロン、ネイルサロン、審美歯科なども多く、働く女性が多く行き交う街並みでもある。
「女性客が少ない」現象は、「来たいけれど来づらい」店舗体験の裏返しかもしれない。
つまり、来店動機は潜在的に存在するが、店側が拾えていないことも考えられる。
同じ商品でも、“誰に向けて・どう語るか”によって集客は大きく変わる。
「焼肉ランチ × スイーツ」
「美容ランチ × 落ち着いた空間」
「がっつりじゃない、満足感」
そんな言葉の仕掛けだけでも、客層の景色はがらりと変わる可能性がある。
「うちの焼肉が、“ネイル帰りの楽しみ”になったら面白いですね。」
店主がつぶやくように言った。
その姿を見ながら、私は心の中で静かにこうつぶやいた。
「それ、きっと正解です。」
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